お悔やみ申し上げます

今朝、友人のお父様がお亡くなりになったとメールを貰いました。お悔やみ申し上げます。これから大変だけどしっかりね。頑張ってね。

友人は私と大して歳も違わないので、私の父親が生きていたら、今朝のメールは私が打っていたのかも知れません。40歳を過ぎたオッサンたちの父親ですから、そんな歳になるのです。人として生まれてくるという事は、同時に人として死んでゆく事の始まりでもあるわけです。そこで私は考えるのです。人として死んでゆくという事を…。

今日は亡くなった学友(仮にKさん)について書きます。

Kさんの死

私は以前、職業訓練校に通っていました。身体障害者の訓練校で5人だけの2年間コースに通っていました。身体障害者の訓練校なので、通院など身体的な理由から欠席者も多く、2年生になった時の授業は、無駄に元気な私1人だけとかがザラにありました。そう!2年になる頃には、1人は自主退学。もう1人は亡くなってしまったからです。

Kさんは重度の慢性腎臓病から、滅多に登校出来ませんでした。ただ、体調の良かった入校時は、一応講義を受けていました。「一応」と書いたのは、まあ、講義を受ける態度が酷かったのです。講義中は寝ているか、講義内容に文句をつけるか、兎に角、問題のある方でした。また、身体が辛いからといって教室を抜け出し、休憩室で休むのかと思えば、マンガを読みながら喫煙してするなど、行動が自由な方でした。

職業訓練はグループ学習も多く取り入れられていたので、分担して作業するという事も多かったのですが、Kさんはそれが全く出来ない方でした。皆、「Kさんはやる気がないから!」と陰で非難していました。私も性格上、Kさんと面と向かって衝突したことがあります。そんなKさんは、2年生になると殆ど登校できなくなりました。腎臓病が悪化して動けない身体になってしまったからです。滅多に登校しないKさんは、たまに登校しても指導員から見放されていました。それは「全ての訓練生の完璧なフォローは出来ない」という理由からでした。訓練校の実情を考えれば、それは正論です。Kさんへの対応は仕方がない事なのです。でも、私はどうしてもKさんを放っておくことが出来ませんでした。
誰も話し掛けない。長期欠席で講義内容が全く理解できない。(概要も説明しないから。)皆、Kさんの存在自体を見ないフリでした。見えなくなったのは、Kさん自身の責任も多分にあります。でも、私は「見える人を見えない」とは言えなかったのです。だって、Kさんはそこにいるのです!

Kさんとは歳も近く、家族とも絶縁状態で1人暮らしと、私とは立場が似ていました。また、Kさんの社会的な接点は、訓練校しかなかったという事も同じです。私はKさんを他人事のように思えなかったのです。
しかし、ある夏の日、Kさんはその唯一の接点を失ってしまいます。腎臓病から誘発される脳梗塞で亡くなってしまったのです。幸い、介護ヘルパーがいた時に倒れられたので、孤独死にはなりませんでしたが、家族が遺体の引き取りを拒んだため、葬儀までに1週間も掛かってしまいました。訓練校側が遺族と折り合いを付けてくれたようでした。

葬儀は介護ヘルパーの方2人と訓練校の指導員、そして、私たち数人の訓練生だけと、とても小さなものになりました。最終的に遺骨こそ引き取られて行きましたが、葬儀は孤独そのものでした。私は最後を看取ったヘルパーさんから「亡くなったお母さんへの花は欠かさなかった」というお話を聞いて、胸が締め付けられる思いでした。

私は今でも時々Kさんを夢に見ます。Kさんはいつもタバコを吸っていました。ケンカもしましたが、喫煙所ではいつも一緒でした。好きな話題で話をすると、少年のように話してくれました。そして、相反する口癖が印象的でした。

「社会に食べさせてもらうだけのお荷物になりたくない」
「俺はいつ死んでもいい。だからタバコは吸う」

そう、いつも言っていました。私たちの年齢になれば、毎年身近な誰かが亡くなります。そして、いつかその順番が自分自身にも回ってきます。人の死を間近に感じる時、私はKさんを思い出します。身勝手に自殺した自分の父親の死よりも身近に感じてしまうのです。

Kさんは身勝手で我儘なだけな人のように映っていた。それでも、孤独な人生に抗っていた。そして、訓練期間というタイミングで社会的接点はあった。家族が誰一人現れない葬儀だった。

私の死はどうなるのだろう?
健康面では、あまり楽観の出来ない先行きです。来年からの仕事や家族との確執もあります。よりよく生きようとするその先に待ち受ける「死」。「生きるってなんだ」という素朴な疑問。それは、考えても考えても、揺らがない答えは見つかりません。ただ、そんな時、私はKさんを思うのです。あの寂しい葬儀で、棺の中で安らかに眠るKさんを。Kさんは必死に生きてきました。それだけは知っています。私は、それを忘れる事はありません。

お悔やみ申し上げます

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コメント

  1. ジャイアン より:

    身内を亡くし、妻も私も闘病中!
    なのに呑気に酒を飲みに出ていたジャイアンです!
    その時、ちょうどそんなお話が出たんですよ。
    「人間はなぁ、オギャと生まれ落ちてから、死に向かってまっしぐらに突っ走っとんねん!『生きる』っちゅうのはなぁ、『死ぬ』っちゅうことやねん!せやからなぁ、大切なのは『如何に生き抜くか』ということちゃうか?」と、関西でもないのに関西弁気取りで息巻いてきました。
    スナックを経営している同級生は「そんな風には考えられない。やっぱり死ぬのは怖い」と言います。
    以前から尊敬している、すでに還暦も超えたママは「その通り!」と全面的に賛同してくれます。
    そんな考え方を持っているので、『死』は怖くありません。
    無駄死にはしたくないとは思いますが、今すぐ死んでも良いように悔いだけは残したくないと、常に心がけています。
    先日、胃ガンの宣告を受けた友人も、「今さら怖くねぇ。生きてる人間が一番こえぇ!」と言ってましたっけw
    至極名言ですね。

  2. ぢるんぢるん より:

    私の日常生活には、「死」がまだ頻繁にないので、今回はいろいろ考えてしまいました。
    でも、そーですよね。生まれてきた以上、どーしても死は避けられないわけですから、本人が納得できるカタチで生き抜くのみですよね。
    お友達、良い方向に向かうといいですね。