新しい傘

その日は夕方から雨の予報でしから傘を持って仕事に出ました。

午前中の仕事が終わり、昼休みに携帯の確認をしました。スマホには見慣れた着歴がありました。この1週間程、立て続けに下の姉から連絡が入っていました。私は、また「お金貸してよ」と言われるのも嫌でしたし、お仕置きの意味も込めて着信を無視していました。本当に連絡しなければならない用件ならば、留守番電話にメッセージは残すのだろうから。でも、今回はいつもの不在着信だけではなく、朝8時過ぎにメッセージが入っていました。私は軽い昼食の後、メッセージを確認しました。内容は「夕べ遅く母が亡くなった」というものでした。

私は少しの間、迷いました。私は9年前から「実家には死んでも帰って来るな」と言われていましたし、実際私が死にかけた時、かけつけた家族は病室で「お金貸してよ」という姉だけでしたから。迷惑に思われるなら、迷惑はかけまい。私は一人で病気と向かい、一人で生きる覚悟と死ぬ覚悟をしたのです。そう、あの日から…。

昼休みが残り10分になった頃、私は意を決して姉に電話をしました。その時、下の姉は上の姉と斎場に向かう途中でした。私は電話に出なかった事を謝罪し、覚悟の程を口に出して確認しました。「とりあえず俺も向かうから。兄ちゃんが帰れと言っても、せめて焼香をさせて欲しいし、少ないけれど香典も渡したいから」私は喪服の準備もなしに、職場から1時間半の斎場に向かいました。

斎場には姉たちより私が先に着きました。そこには9年ぶりに会う兄がいました。私たちには確執がありました。私も兄も頑固でしたし、相容れないが故に距離を取っていました。けれど、それは母の霊前で張る意地ではありませんでした。少なくとも、その時を、母を見送る時だけは、ただの兄弟であろうと言ってくれました。私は、ただ息子として、母の死を悲しむことが出来たのです。後から到着した二人の姉と、22年ぶりに姉弟4人で母の死を悲しむ死ぬことが出来たのです。

母は22年前に亡くなった父と同様、お世辞にも良い親ではありませんでした。子供たちの誰一人として、親らしい事はしてもらえませんでした。母はいつも子供のように振る舞い、認知症となった晩年には壮絶なものになっていました。面倒を見ていた兄や一番傍にいてくれた義姉は、どれだけの辛い思いをしたのでしょう?母方の親族が誰一人として、この場にいない事を考えると、より深くやるせない思いを募らせてしまいました。しかし、そんな母の死が、どうしようもなく拗らせてしまった姉兄たちとの確執を超えて、一時でも憎しみの鎖を解いてくれた事に感謝をしています。

納骨の都合上、戒名はあるが葬儀は無し。そんな貧乏人の最後でした。自身の子以外、血族は一人も現れない最後でした。けれど、兄の血の繋がらない孫たちに囲まれ、母は幸せな最後を迎えることが出来ました。あんなに激しかった人が、あんな穏やかな顔で逝ったのですから。

通夜と火葬、そして火葬のその日にお寺に納骨をしました。22年前に自殺した父と同じお寺に、母は永い眠りにつきました。

新しい傘

田舎から出てきた姉を新大阪まで見送り、自宅最寄りのいつもの駅に降りると雨が降っていました。私は遺体を安置しただけの通夜用に借りた斎場に、傘を忘れた事を思い出しました。でも、2000円の傘なので取りに帰るには面倒に思いました。

そして、私は新しい傘を買いました。忘れた傘と同じ傘を買いました。100円の直ぐに折れてしまう傘ではなく、この先の雨に打たれても濡れず家路に着くために。経済的に困窮している姉たちの分の香典も払い大散財した後でしたが、2000円の折れない傘に「験を担いでもらう」意味も込めて。

新しい傘2

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コメント

  1. ジャイアン より:

    お母さまのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

    一言一言が重いです。
    選りすぐられた言葉が並んでいます。
    行間に、混沌とした思い、記憶が、溢れかえっているかのような文章です。

    お母さまの旅立ちに際し、全ての恩讐を超えて、皆さまが並ばれたことが、何よりの供養。
    それが証拠の、穏やかな表情。
    4年前の実父逝去の姿を思い出します。

    後はハンマーダックさんが、現実に抗いながら、立派に生ききることです。
    私は、そうしています。

    • hammer_Duck より:

      コメントありがとうございます。

      今後、兄弟4人が揃う機会は訪れないと思います。けれど、今回がなければ22年前の父の葬儀が最後だったと思います。
      出棺の前に兄弟4人で写真を撮ったのですが、それは40年ぶりくらいの事でした。改めて写真を見ると、皺くちゃになったオジサンとオバサンが並んだだけの写真なのですが、私の持つ唯一の家族写真になりました。それは私にとって大切な宝物になりました。

      私も残された時間を精いっぱい生き抜こうと思います。もう沢山の事は出来ませんし、繋ぐ命もありませんが、私は私らしく生きてゆこうと思います。